日日是幸日

私の幸せなおウチの作り方

ママ友②

こんにちは、かじがや深雪です。

 

 

 

今日は前の続き。

前回は前置きが長くなり、それで終わってしまいましたね。

 

 

 

 

降園後、子ども達はお友達とまだ遊びたいので園庭で遊ぶのですが、そのときの話です。

 

 

Aさんの子どもをAくんとさせてください。

Aくんが幼稚園で紙をクルクルして長い棒のような物を作ったので、それで遊んでいました。

Aさんは危ないからそれを持って走るのはやめてと言っていました。

 

そうこうしてると、

うちの娘の顔に他の子にその棒が当たってしまいまったんです。

で、うちの娘が顔に当たって痛かったと言ったので、

私がAくんに「その長い棒が顔に当たって痛かったみたい。」と伝えました。

 

そうすると、

当たったもう1人の子、Bちゃんが「私も痛かった」と泣き出したのです。

そして、「私と Cちゃん(うちの娘)に当たったから謝って!」

とAくんに言いました。

 

 

 

BちゃんとAくんの関係も良くないので、Aくんはすねて怒ってしまいました。

 

 

Aさんから「謝りなさい」と言われたAくん、「嫌だ」と言って泣いてしまいました。

 

 

 Cは、こういう状況が苦手で、こうしたやり取りに付き合うのがめんどくさいと思っている節があるので、離れたがります。

 

そのときもAくんからは離れました。

そして、Bちゃんと他の子と遊びだしました。

 

 

 

そこにAさんに連れられたAくんが謝るように言われて来ました。

 

でもうまく謝れず、しくしく泣いていて、時間が経ってようやく小さい声で「ごめんね」と言えました。

 

でも Cには聞こえなかったみたいで、「聞こえない」と言いました。

 

 

それが2回ぐらい続いて、付き合うのにめんどくさくなった Cは「ま、いっか」と言いました。

 

 

私も怒られながら、いやいや謝るAくんも見たくなかったし、

気持ちがこもっていない形式だけの謝罪なら不要だと考えて、

もうそれで良いと思い、娘を付き合わせるのをやめました。

 

 

そのときに、AくんとAさんに「もういいよ」と私から言うべきでした。

今から思うと、

このときの私の対応が良くなかったなと思います。

 

 

そうした対応をとってしまった原因は2つあります。

 

 

 

一つは、先ほど言った、

気持ちがこもっていないのに、謝ることに意味を感じないこと。

頭では社会的に必要な行為だと理解してるし、自分はすぐに謝れる人間です。

 

でも、私の気持ちとしては、形式的な謝罪に違和感を感じてしまいます。

 

 

 

幼稚園の園児の間でトラブルが起きたら「ごめんね」「いいよ」と言い合う。

 

男の子はプライドが高いのでなかなか言えない。

 

それはそれで別に良いんです。

私は謝ってほしいとは全く思ってなくて、

謝れないんだな、と思うだけなんです。

 

子どもの気持ちは確かに「ごめんね」と言われて慰められるところもありますが、親に痛かった気持ちを受け止めてもらえると落ち着きます。

 

私は別にそれでいいと思うんです。

 

それでその子との関係は気まずくなると思いますが、それは謝れない子どもが背負わなければならないことです。

 

社会性の低い子どもは阻害される。

だから、阻害されないために、「謝る」という手段を身につける。

失敗しても、それで学ぶことがあります。

そしてそれは子ども自身が自分で学ばなければなりません。

 

謝ったのに許してもらえないこともあります。

そのとき、自分がしたことであれば、自分の振る舞いを反省するでしょう。

でも親から言われて謝ったとしたら、許してもらえなかったとき、親に怒りが向けられると思うんです。

 

だから、親が謝ることをお膳立てすることにとても違和感を感じます。

 

ただ、これは年長だからであって、

もっと小さいうちは、

そのやり取りの方法がわかってないので、親のお膳立ても必要なことだと思います。 

 

 

 

 

 

 

二つ目は、私は人が怒っているのが苦手なところがあって、

そういう状況に置かれると、フリーズしてしまうところがあります。

 

そして、こういうことがあるととても疲れます。

 

これは、私の母がとてもよく怒る人であったのが関係があると思っています。

 

 

 

 

続きます。